ディスレクシア専用英語塾「もじこ塾」のブログです。 ●ディスレクシアとは:知能は普通だが、読み書きが苦手(読み間違いが多い、読むのが遅い、書き間違いが多い、読むと疲れやすい)という脳の特性 ●全体像の把握、物事の関係性・ストーリーの把握、空間把握、ifを考えるシミュレーション能力に長ける ●読み書きの困難は、日本語より英語に出やすい ●適切に対処すれば、読みの問題は表面上は克服される ●10人に1人程度いるというのが通説 ●家族性とされるが、ディスレクシアの表れ方は個人差が大きい もじこ塾は、ディスレクシアはこれからの社会に不可欠な才能、でも日々の学習では普通と違うアプローチが必要、という立場です。

2014-05-30

ディスレクシアの「本の読み方」:園善博『頭がよくなる魔法の速習法』

少し前になりますが、大学の恩師(→ディスレクシアの言語学者)が、
下の記事を私にfaxしてきました:

講談社「本」2014年3月号、
園善博「読字障害の私が、「本の読み方」を教えている理由」

・本は「気になったところ」だけを読むようにして、残りは読み飛ばす。
・目次をしっかり読む。
・自分の声を録音して、聴いて覚える。
・図書館やカフェなど、まわりに人がいる場所で勉強する。
・勉強する目的を明確にする。
・夜ではなく、朝の時間に勉強する。
・読んだ内容を必ず人に話してみる。

とあります。
『とつぜん記憶力がアップする 4日で脳が変わる習慣』
オカルトっぽい(?!)題名ですが、
内容は、意識の持ち方や集中の仕方などの地道な話です

この著者の本を2冊読みました。


『頭がよくなる魔法の速習法』
特にこちらは、カギ括弧や太字の使い方、タブ使いが独特で
とにかく一目で見て内容が分かるつくりで
「ディスレクシアはこういう風にしてもらうと分かりやすいんだな」と思う紙面です。


ディスレクシアの人はこうやって本を読むのかと、
つくづく思い知らされました。


著者は、本からは多くを学べるから、読書すべきだと力説した上で、
本の読み方として

・「なぜその本を読むのか」という目的を明確にする
・全体をぱらぱら見て、キーワードを拾う
・目次を見る/作るなどして、常に全体像を把握する
・細かい部分を読むときは、すでに持っている知識に関連付けて読む
・書いてある内容をエピソード記憶につなげて記憶する
(体を使う、別のストーリーに関連づけるなど)

を勧めます。

常に全体像の中での自分の立ち位置を意識すること、
関連性やストーリー性を重視すること、
目的=モチベーションが非常に重要であること。
これまで当ブログで展開してきたディスレクシアの性質そのままですね。



ディスレクシアにとっては、
本は最初から全部、一言一句通読するものではないようです。
目的意識と全体の中での立ち位置を明確にすることで
自分から情報を取捨選択しに行くという、
非常に能動的な読書の仕方をしていると分かります。

そういえば、研究者でディスレクシアという別の方からも、
以前に同じようなことを伺いました。

研究者は普通の人の何倍も読まなければならないので、
ディスレクシアで研究者というのは、一見不思議なことです。
そんなサンプルがいま2人いるわけですが。。

ディスレクシアでも人一倍本を読む人たちはきっと、
読むのが苦手だからこそ、
目的意識を持って取捨選択する"能動的な読み方"に到達したのでしょう。

逆説的なようですが、
一言一句読まない(読めない)ことで、人一倍深く内容を理解できるし、
読んだ内容を活用しやすいように見受けられます。

☆  ☆  ☆

ところで、言われてみればこれは、
実務翻訳者である私が原文や資料を読むときの方法そのものです。

依頼者がなぜこの文を訳してほしいのかを、全力で察する(目的意識)
文章全体の構造を把握し、そのなかで個々の訳語を決める(関連付け)
今知りたいことに関係する情報に絞って読む(目的意識)、
締切というモチベーションがないと、急にやる気がなくなる(笑)など・・・

翻訳者も、ディスレクシアも、
短時間で概要を理解し、アウトプットまで持っていこうとすると、
このような読み方に行き着くのかもしれません・・・?


☆  ☆  ☆

上の本を読んで思ったこと。

(1)
このような読み方を、ディスレクシア児に教えるのは、
何歳くらいからが適しているのか?

小6を境に読み方が変わる」とある勉強会で聞きましたが→参考こちら
最近、うちの子(小6)も、逐字読みから、
内容理解をもとにした推測読みに少しずつ変わってきたふしがあります。

どのタイミングで、ディスレクシア的な能動的な読み方を教えるべきなのか、
それとも勝手に身につけるのを待つべきか。
迷います。。

(2)
外国人への日本語教育とディスレクシア日本語学習の共通性。

知り合いの日本語教師からたまたま聞いたのですが、
「全体像をざっくり把握する」「キーワードを拾う」といった読み方は、
実は、日本語中級・上級で教えるテクニックらしいです→例えばこちら

日本語が母語のディスレクシアの人に効果的な読み方と、
外国人の日本語教育には、共通点がけっこうありそうです。




2014-05-29

「学習障害」→「学習症」へ名称変更

「学習障害」が「学習症」という呼び方に変わるようです。

子どもの病名、「障害」の多くを「症」に変更

読売新聞 2014年05月28日 21時41分

読み書きが困難な子どもの「学習障害」は「学習症」に――。日本精神神経学会は28日、精神疾患の病名を変更すると発表した。分かりやすい言葉を使うとともに、患者の不快感を減らすのが狙い。
 米国精神医学会が作る精神疾患の診断基準「DSM」が昨年5月に改定されたのを機に、関連学会で病名や用語の和訳を検討してきた。

 「障害」が付く子どもの病名の多くを「症」に変えた。親子がショックを受けたり、症状が改善しないと思われたりすることに配慮した。

 対人関係などに問題が生じるアスペルガー障害や、自閉性障害は、「自閉スペクトラム症」に統一。衝動的に行動しがちな「注意欠如・多動性障害」は「注意欠如・多動症」にする。

 大人に多い病気で、障害を症に変更した病名もある。動悸どうきや身震いなどの発作を繰り返す「パニック障害」は「パニック症」に。体の性と自ら感じる性が一致しない「性同一性障害」は、より分かりやすい「性別違和」に変える。

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たしかに、何も知らない人に
「うちの子はいわゆる学習障害があって」と言うと、
妙~に重い雰囲気になるので(実態と全然違うものを想像されてます)
そういう誤解を防ぐには良いことかもしれません。

でも、「学習症」と呼び方を変えるだけでは、
ディスレクシアに対する根本的な誤解はなくならないですよね。

精神疾患の病名を論じる会議での議論では、
ディスレクシアを「障害」なり「症」とするのは致し方ないのでしょう、が、
ディスレクシアは、欠落というよりは世界の認識方法の違いであり、
文字重視の社会によって作られている部分が大きいとつくづく感じます。

世が世なら、字しか読めない人のほうが「学習症」だったかもしれません。
ディスレクシアの能力を認めた上で、
「この文字重視社会に適応できる程度に"学習症"を緩和していこう」
というスタンスがほしいところです。


念のためですが、
「ディスレクシアは障害じゃなくて特殊能力なんだから安心」
と言っているわけではありません。

これからの社会は、
「障害」=「救いようがない」「社会のお荷物」「施さないと生きていけない」
逆に「障害がないなら社会のレールに乗ってバリバリ活躍せねばならない」
という認識も、改めないといけません。

ディスレクシアな子は、そんなことまで教えてくれます・・・


2014-05-23

6年生の漢字学習:漢字をあきらめてはいけない

道村式漢字カードの進捗です。

「道村式漢字カード」は5年の2学期から使い始め、3学期目に入りました。

イイ感じで、日々のサイクルの一部になっています。

道村式漢字カード」がなかったら、
家庭学習は漢字だけでへとへとになっていたことでしょう。
道村先生、本当にありがとうございます!



現在は、学校の進度を少し先取りする形で、カードを使っています。
学校の漢字の授業についていけるので、本人の気持ちも楽なようです。


週3回程度、1回につき2個の新しい漢字を、漢字カードを使って覚えます。


おもて面を見ながら、何回か部品を言ってもらいます。
おもてを見ないでも言えるようになったら、1回だけ書きます。
このように、「書き取りの繰り返しをしない」のが
道村式の大きな特徴で、
ディスレクシアにやさしいポイントです。


ついでに、数日分の復習をします。

最近は、漢字カードの裏面を黙読してもらい、部品を言わせています。

上手に言えないものだけ、書いてもらいます。

画数が少ない漢字のほうが、記憶も再現もしづらいのは、相変わらずです。


今年の担任の先生は、漢字テストの出題内容を、完全に教えてくれます。
なので、前々日から、1回ずつ練習します。

前々日、学校で


前日。この日一番苦労したのは「場所」

そして本番。

「立」の書きかけな感じが、漱石の「冗」(誤字)にそっくり

先生!「耳」よりも大きな間違いがあります!(笑)

このように、前に書けていた字がなぜか書けないのが、ディスレクシアです。

だから、だいたい定着したらよしとして、次に進みます。



「収」がなかなか覚えられません。

☆  ☆  ☆


少し前、同年代のディスレクシア児をお持ちの方から
「書くことを諦めてはいけないんですね。」
というメッセージを頂きました。

そうですね・・・
私も、子がディスレクシアと分かった直後は、
「個々の漢字の意味さえ分かれば、
音にできなくても、なんとなく意味が分かるのが漢字の良さだし。
こんなに漢字を正しく書くのに苦労してるなら、
無理して漢字一つ一つの徹底的な定着をはかる必要はないのかも?
漢字は”なんとなく”でいいかも?」
と思っていた頃がありました。

でも、ディスレクシア教育の師と仰ぐ方から
「漢字をあきらめてはいけない!」という言葉を頂き、
多感覚式を試行錯誤しながら道村式カードにたどり着き、現在に至ります。




大学の恩師にも、背中を押されました。
この人のことは、今後少しずつ書いていくつもりですが、
『漢字は日本語をほろぼす』という本まで書いているほどなのです。
「漢字はことばではなく、文字にすぎない」
「漢字は日本語に打ち込まれたくさび。明らかに異物だが、抜いたら日本語は死ぬ」
だが「いまこそ漢字から日本語を解放すべきだ」等々と
日本の漢字信仰を徹底的に批判してきました。

しかも、この本を書いているとき、恩師は自分がディスレクシアだと気がついていませんでした。
独・露・蒙を完全に操り、英・仏・西など多少読める言語は限りなくある、その道では有名な言語学者なのですが。。

話を戻すと、私も恩師の漢字批判の影響を長年受けているので、
「先生が"漢字は日本語をほろぼす"なんて言うから、
私も子供も、どうも漢字学習に本腰が入らないんですよ」
と、話したことがあります。
そうしたら、恩師は「それはそうなんだけど、でも漢字は頑張るしかないね」
と言うのです。
「え?は?漢字やらないとだめ?!」とは思いましたが、
私自身が本腰を入れて漢字学習の試行錯誤を始めたのは、そんなやりとりがきっかけです(ひねくれ者ですみません)。


で、うちの子ですが、
道村式カードをもってしても漢字大好き☆にはならず
(道村先生ごめんなさい)、
むしろ「漢字は日本語をほろぼす」という言葉が心の支えなのですが、
でも、道村式カードのおかげで漢字をなんとか書けることも、
それ以上に心の支えになっています。

だから、やっぱり漢字をあきらめてはいけないと思います。
特に、ディスレクシア児に接する親や教師は・・・。



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道村式漢字カードのこれまでの進捗はこちら

漢字カードはこちらのサイトで買えます。書店での取り扱いはありません。

2014-05-15

夏目漱石の誤字はディスレクシアのせいだと仮定すると、説明できることがたくさんある

「見えない文字と見える文字~文字のかたちを考える」(佐藤栄作、2013)

「漱石は誤字ばかり書いたのか」という章があったので、
さっそく読んでみました。

なんと!!
漱石はどうやらディスレクシアなんですね!!
上の著者はディスレクシアというものをたぶんご存じないですが、
漱石がディスレクシアだと、はからずも示しています!

夏目漱石が近代日本文学研究最大のテーマだと重々承知の上で、
あまたある漱石研究にもあえて目を通さずに、以下書いてみます。

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1. 「漱石は誤字ばかり書いたのか」から、漱石ディスレクシア説を立てる

2. 漱石の誤字はどのように説明されてきたか

3. ディスレクシアと創造性
4. 『坊っちゃん』の直筆原稿
5. 「漱石ディスレクシア説」の裏付け4点
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1. 「漱石は誤字ばかり書いたのか」から、

漱石ディスレクシア説を立てる

著者はまず漱石の誤字を挙げ、これらは現代では0点になると言います。




そして、これらが本当に「うっかりミス」「覚え間違い」かを検証していきます。
これらは誤字ではない、というのが著者の立場です。

その証拠として、著者はまず、当時これらは「異体字」だったと言います。
いくつかは、1716年に清で編纂された『康煕字典』に近い例があると言います。
ただ、当てはまらないものも、かなりあることを認めます。

その上で、漱石の誤形字を
「古くからしっかりした文献に書かれた字体であり、康煕字典体と異なるものの、日本において標準的な字体だったと言えるもの」つまり異体字
「標準的とは言えないものの…漱石のみならずかなりの人々が書いていたと思われるもの」いわゆる俗字体
そして、「文献資料に例が見つけられないため、どのくらいの人が書いていたか不明のもの(これはウソ字と言わざるを得ない)」としたうえで、
さらに時代をさかのぼった場合、「達」には辶に幸の異体字があるなど、「ウソ字」も漢字のバリエーションとして説明できる、と言います。


・・・いえいえ、お言葉を返すようですが、
漱石はディスレクシアであり、漢字を読むのはまだしも、書くのは相当つらかった、
上の字はやっぱり誤字なんだと、考えてみたらどうでしょう?
いろんなことのつじつまが合うように思います。

上の字は、どれをとってもディスレクシア的な間違い方です。
うちの子も、すでに習った「類」「達」「祝」については、
上とまったく同じように書いたことがあります。

☆  ☆  ☆

続いて著者は、
一字に複数の字体が存在し得ることが、漢字の本来の特徴であり、
明治時代の『康煕字典』と戦後の当用漢字表・常用漢字表によって、
日本では異体字の存在が次第に認められなくなっていった、
「漢字は漢字らしさを、この200年で失っていった」と指摘します。


・・・これはなるほどです。

つまり、近世の日本(もしかしたら清でも)では、
ディスレクシアの人が、異体字という名のもとに、
誤字がけっこう混じった文章を書いていた可能性がある
ということですよね。
行書体なら、漢字の細部までは問われなかったでしょうし、
筆のほうがディスレクシアにとっては書きやすかったようです(後述)。

漢字は歴史上ずっと、ディスレクシアに辛い文字体系だったのではなく、
昔は異体字や俗字体を幅広く許容した、ディスレクシア・フレンドリーなものだったのですね。
(実は、異体字や俗字体の一部は、当時のディスレクシアの人による、典型的な書き間違いだったかもしれません?!)

現代は、字の異常なほどの正確さが(主に試験で)要求される点で、
日本の書字の歴史において例外的な時代だと、改めて分かります。


☆  ☆  ☆

最後に著者は、漱石が自分の名前をも「誤形字」で書いていたと指摘し、
「自分の名は間違えません」、だからこれは通用字のはずと言いますが・・・

いやいや!自分の名前だって書き間違うのがディスレクシアです。
うちの子は(どの漢字か紹介できないのがほんとに残念ですが)
テストなどでは自分の名前をちょこちょこ間違えます。
線が一本足りなかったり、ハライの方向が逆だったり。



2. 漱石の誤字はどのように説明されてきたか

漱石に誤字が多いことは、専門家の間では知られている事実のようです。

漱石を神格化するあまりか、誤字を誤字と認めない説が多いのにびっくりします。

例えば、 借金は「帰」さない?漱石の誤字に隠れた意図という記事では、
『坊っちゃん』の中には借金を<帰す>と<返す>と2種類の表記があるが、
そこには漱石の綿密な使い分けがあると言います。

ええ~そうかな?!
うちの子が「借金を帰す」と書いたら
(いかにもディスレクシア的な間違い方なので書きそうですが)
「綿密な使い分け」とは決して言ってもらえないでしょう。

「文豪たるもの、一つ一つの語彙の選択に、入念な意図があるはず」
という思いがあって、
だから誤字を誤字とはしないで、そこから深遠な意味を読み取ろうとするのでしょうが…

でも、字と語彙は同じではないとしたら、どうでしょう?

作家たるもの、もちろん一つ一つの語彙の選択には、必ずや入念な意図があるでしょう。
でも、字は語彙を可視化したものに過ぎません。
どの語を使うかに入念な意図があっても、必ずしもそれが、一般的に通用する字と一対一対応しているとは限りません。
少なくともディスレクシアにおいては。

「文字を超えたところに、本当の言葉がある」
ということが、特に顕著に表れるのが、ディスレクシアです。


☆  ☆  ☆


漱石の字を、さらに神格化している例もあります。
引用の引用で申し訳ありませんが:

石川九楊は、こう書く。
<夏目漱石の書簡、条幅、いずれも文字は見事にすっきりと垂直に並んでいる。行の中心線に無関心ではいられなかったからだろう。
私見によれば、天空に向けてまっすぐに伸びる中心線は神への階梯、神(「価値」)に生きる象徴である。>
夏目房之介「読めなかった祖父の直筆原稿」より
(『直筆で読む「坊っちゃん」』(集英社新書ヴィジュアル版、p383) )
苦笑。。
ここから浮かび上がってくるのは、
「きちんとした思索は、きちんとした文字によって書かれる」
逆に言うと
「字がだらしない人は、思考もだらしない」
「誤字や悪筆は、考えがいいかげんな証拠」
という社会通念です。

文豪が悪筆だということが、ど~~しても認められないんですね・・・・

悪筆で誤字だらけでも文章が素晴らしいということは、十分にあり得るのですが。

漱石の直筆には誤字がたくさんあるけれど、
そのことは、彼の作品が名作であることをいささかも損なうものではありません。



3. ディスレクシアと創造性

ディスレクシア(読字障害)とは、知能は普通ですが、文字⇔音の認知処理が普通より遅い認知特性です。
書くほうについては、誤字が多くて悪筆or誤字はないが書くのが異常に遅いという表れ方をします。
読みの困難は、知能が高いと、文脈から字を推測する力が発達するため、表面化しないことがあります。
言語の特性上、日本語よりも英語に多く表れます。

・・・以上が"障害"に焦点を当てたディスレクシアの説明ですが、
当ブログでは、
「ディスレクシアとは、字を読み書きするのが苦手な一方、
独創的な視点の持ち主である」
という立場を取っています。

アメリカでディスレクシアと独創性の関係についての研究を進めているEide博士夫妻によると、
ディスレクシアには空間把握力にに加え、一見つながりのない物事同士の関係を見出す力、物語を語る力、将来をシミュレーションする力が特に高いと言います。
そして、後者2つの才能は、特に文章の創作(作家、脚本家など)に生かされると言います。
こちら(「ディスレクシアであることの利点」)

欧米では、ディスレクシアの作家として、アガサ・クリスティー、スコット・フィッツェラルド、ジョン・アーヴィングなどが知られています。
参考:こちら(英語です)

つまり、漱石がディスレクシアであっても不自然な点はなく、
それどころか、
「ディスレクシアだからこそ、時代の先を行く作品を生み出すことができた」
とさえ言えるのかもしれないのです。


☆  ☆  ☆


「漱石は漢籍に詳しかったのだから、ディスレクシアのはずがない」
という反論があると思います。
これに対しては、漱石は知能の高いディスレクシア(隠れディスレクシア)だったと考えられます。
これだと、読みには一見問題がなくても、正しい字をすばやく書くことに困難を伴います。

「漱石は書を書いている」という反論もあると思います。
これに対しては、
「ディスレクシアの場合、筆で書けば絵の感覚で書けるが、鉛筆だと誤字が頻発する」
という指摘が、当ブログに寄せられています。
また、ディスレクシアだと、体を使って大きな字を書くと比較的書けますが、
小さな字を書くのは苦手です。
こうした、字の大きさや筆記用具による誤字率の差は、考慮に値します。




4. 『坊っちゃん』の直筆原稿

ではここで、『直筆で読む「坊っちゃん」』から、漱石の直筆を紹介します。






「漱」が口へんになってます!

なんと勢いのない字!(→けなしてません)

「神への階梯」とかは、悪いけどまったくの見当違いでしょう。


上で挙げられていた誤字の多くは、この冒頭ページに登場します。
1文目の「損」、4行目「段」、
5行目「冗」(どうみても「空」と混同。とてもディスレクシア的)、
最後の行の「答」など。

ひらがなは異体字が多いですが、誤字はありません。
(例えば3行目は「腰を抜かしたことがある。なぜそんな無闇をしたと聞く」です。)

個人的には、もんがまえの線がぷるぷるしているあたりに、ディスレクシアを感じます。




2行目「赤シやツ」、3行目「専問」の明らかな誤字があるほか、
1行目「命」、5行目「遠慮」の慮、12行目「露西亜」の露などもかなり微妙です。



すべてのページに誤字があると言っても、過言ではありません。

ちなみに漱石は『坊っちゃん』150枚を、10日ほどで一気に書いたそうです。



7行目「氣が済まない」の「氣」のくずし方(乙がない)、
8行目は「袴」もですが、「大きな玄関に突つ立つて」の「関」のもんがまえのくずし方は、とてもディスレクシア的です。
うちの家庭教師君(弱いディスレクシア)もこういうくずし方をします。
「字を思い出すスピードが思考のスピードに追いつかなくて、ついそうしてしまう」のだそうです。



5. 「漱石ディスレクシア説」の裏付け4点


今回、高校以来始めて『坊っちゃん』を再読しました。
こんなに"面白い"文章だったとは!
字面だけ追うと、単にどたばたした話なんですが、
坊っちゃんの眼球を自分の眼球に入れたつもりで小説の世界を眺めると、
坊っちゃんが見えているものだけでなく、坊っちゃんが見えていないものまで見えるんですね。
「日本語を使ってここまで表現できるなんて!」と今でも思わせ、
明治時代にあっては本当に別格な小説だったろうと思いました。


漱石がディスレクシア的だなと感じる点を、4点挙げてみます。

1. 絵がうまい

『新潮日本文学アルバム 夏目漱石』より、漱石の絵手紙

絵が上手なのは、ディスレクシアによくみられる特徴のひとつです。


2. 中学を「英語が嫌い」で退学している

小学校では学業優秀で飛び級までしているのに、
府立一中(現在の日比谷高校)を「英語嫌い」で退学しています。

現代でも、日本語だけを勉強しているときはわからなかったのに、
中学で英語の学習が始まったときにディスレクシアが発覚することはよくありますが、それを彷彿とさせます。



3. 「漱石」という名前

そもそも、「漱石」と自分を名付けるあたりに、
自分の認知特性を理解していたと感じるのは、うがちすぎでしょうか?

「漱石」とは、中国の故事に由来します。
  • 晋の孫子荊(孫楚)がまだ若かった頃、厭世し隠遁生活を送りたいと思い、友人である王武子(王済)に、「山奥で、石を枕に、清流で口を漱ぐという生活を送りたい」(枕石漱流)というところを間違えて、「石で口を漱ぎ、流れを枕にしよう」(漱石枕流)といってしまった。王武子が「流れを枕に?石で口を漱ぐ?できるものか。」と揶揄した。すると孫子荊は負けじと「流れを枕にするのは俗世間の賤しい話で穢れた耳を洗いたいからだ。石で口を漱ぐのは俗世間の賤しいものを食した歯を磨きたいからだ。」といい返した。こちら

ここから「漱石」とは「負け惜しみが強い、変わり者」を意味するそうですが、
もしかしたら「自分は漢字を入れ換えてしまうことが多い」(→ディスレクシアの特徴のひとつ)という自覚があって、それでペンネームにしたとは考えられないでしょうか?
あるいは、「漱石」は子規の数あるペンネームからもらったそうですが、
子規が漱石の誤字の多さに気づいていて、「漱石」の名前を与えたのかもしれません・・・


4. 『坊っちゃん』とからめて

『坊っちゃん』の内容には深入りしませんが、1点だけ・・・

もしも、漱石の「誤字」に、文字の歴史的変化に基づく深い意図があるとした場合、
文字の歴史に関する知識がない人、つまり教養のない人は、
『坊っちゃん』を深くは理解できないことになります。
でも「坊っちゃん」を貫くメッセージは、そんな教養主義とは正反対のはず。
ここからも、漱石の字は"通時態"に照らして理解すべきものではなく、
漱石は誤字を書く作家、つまりディスレクシアだったのだろうと思います。


日本を代表する作家には、ほかにもディスレクシアの人がいる気がします。
これについてはまたの機会に。





2014-05-04

正高信男教授のディスレクシア用デジタル絵本

正高 信男教授(京都大学霊長類研究所)によって、ディスレクシア用のデジタル絵本が開発されたとの記事が出ていました。


2014年5月3日・日本経済新聞より
この方、たしかサル研究の人じゃなかったっけ・・・?と思いましたが、
どうやらサル研究から人間の言語獲得、さらには言語の不獲得(ディスレクシアを含む発達障害全般)に関心が移っていたようです。
けっこう面白く読んだように記憶してますが、
もう10年前の本なんですね。


アプリ的には、デイジーに似ていると言えそうですね。

一点、あえて言うなら、
4歳の頃は、たいていの子は(ディスレクシアか否かを問わず)読み聞かせが好きなので、
読みの練習をわざわざさせようとは思わないことでしょうか・・・


正高教授の数年前の講演→「人間にとって障害とは何か」 
も見つけました。
印象的だった言葉をピックアップしてみます。

<発達障害が「増えた」原因>
現代日本はコミュニケーションが非常に重視され、しかもその点で画一化が進んでおり、ちょっとでも違っているとはじかれる。
昔は、人付き合いが苦手といっても全然構わなかった。人付き合いがないような職業(第一次産業)を選べば良かった。
だが今は、人口の4%しか第一次産業に従事していない。こうした政治の失敗が発達障害の「増加」に荷担している。

<発達障害が「目立つ」のは中学と大学>
発達障害で一番困るのは中学生。不登校や引きこもりのかなりの部分は発達障害が引き金になっている。
しかし、その根本原因は小学校時代にある。
小学校の頃の勉強のつまづきや友達ができないことへの対処に遅れると、二次障害として中学で問題が生じる。
だが、二次障害にテコ入れするのは非常に難しい。

中学と並んで発達障害の対処が迫られるのは大学。
なぜなら大学の実績は就職ではかられるが、発達障害があると就職が大変だから。

<京大はアスペルガーだらけ>
大学にも発達障害はいるが、京都大学だとアスペルガー傾向の人はたくさんいるがLDは少ない。逆に偏差値が低い大学だとLDは多い。 
国立大学でいうと、富山大学が一番発達障害の方に対する支援をきちんとやっていらっしゃって、コミュニケーションに困難と障害を覚える学生のための支援センターというのをつくっています。富山大学の方に会った時に、「京都大学はそういうことを試みとしてされていないのですか」と聞かれたのですが、「ああ、全然していません」と。その理由は簡単で、教員のほとんどがコミュニケーションに困難と障害を覚えるのですと。 

<「障害」は文化や社会のあり方によって決まる>
24 歳の時、アマゾンでフィールドワークをして1年間暮らしていたが、アマゾンだとアスペルガーで会話が苦手でも何も困らない。ガイドはディスレクシアだったが、猟をして暮らしているので困らない。だが、アマゾンで方向音痴だったら生きていけない。 
日本は逆で、方向音痴は問題ないが、コミュニケーションができなかったら大変。
つまり障害とは、その文化・社会的な状況と文脈によって、それが問題になるかどうかが規定される。

2014-05-01

音声工学からディスレクシアの仕組みに迫る論文に、心の底から感動する

1月、当ブログに、あの東京大学からアクセスが集中した日がありました。

なんだろうと思い、リンク元をたどってみると、

東大工学部・峯松信明教授の「音響音声学」という授業で、
「ディスレクシアであることの利点」が参考資料にあがっていました。

峯松研究室のサイトに、
~「あ」という声を聞いて母音「あ」と同定する能力は音声言語に必要か~
という論文が置いてあったので、読んだところ・・・・

これまで読んだ「ディスレクシアの日本語と英語の出方の差」を説明している
どの論文よりも、激しく腑に落ちるものでした!!



(←『ビヨンド・エジソン』という本に、
同じ内容がより一般向けに書かれています。)



峯松論文では、まず音楽の「絶対音感」と「相対音感」の違いを説明します。
絶対音感者とは、どんな音を聞いても、音程がわかる人です・・・①
音楽を聴いて譜面に起こすことができる人です。
こういう人たちは、音を流れとしてではなく、孤立的にしかとらえられません(その証拠に、絶対音感がある人は、カラオケで転調されるとわけがわからなくなります。私がそうですが)

一方、相対音感者というのは、音楽の一節を聴いて、譜面には起こせないものの、そのフレーズを歌って再現できる人たちです。

この人たちには、
「チューリップ」の出だしを聴いて、
それが何長調のチューリップであろうと「『ドレミ~ドレミ~ソミレドレミレ~』だね」と言える人・・・②と、
音階は一切言えないけど、聴いた音楽のフレーズを歌って再現できる人・・・③がいます。
②③とも、音の「関係」を正しく把握しています。
なかでも③は、音同士の関係だけ把握していて、その音が何かはわかりません。

確認ですが、
①の人は聴いたものから完全に楽譜が書けます。
②の人は転調が必要でしょうが、高低差の関係は正しい楽譜が書けます。
③の人は、音楽のフレーズを聴いても音階は分からないので、楽譜は書けません。
ただし、聴いたフレーズを再現することは問題なくできます。


峯松論文ではここで、大転換をします。
絶対音感とvs相対音感を、話し言葉の理解に応用するのです。

つまり、
①言葉の音を、あくまで一つひとつ、孤立的にとらえる人。
②言葉の音を、前後の音との関係でとらえ、文字にできる人。
③言葉の音を、関係によってしか把握できないので、文字にできない人。

がいるはずだと指摘するのです。

②が普通の人、③がディスレクシアです。
ちなみに、①は自閉症です。

峯松先生はこの仮説を立てた時点では、
③のような人が実在することを知らなかったそうで、

「音声言語は流暢だし雄弁。頭は良いのかもしれない。でもなぜか本が読めない、手紙が書けない・・・教育を受けていないとか、そういうことでなく、彼らの認知特性として文字言語が何故か難しい」、

そういう人がいないかと知り合いの言語聴覚士にたずね、
「それってまさにディスレクシアのことですよね」
と言われて初めてディスレクシアの存在を知り、ものすごく驚いたそうです。

しかも、そういう人は日本語話者よりも英語圏に多いはず、なぜなら

相対音感度が高い方々・・・は日本語やイタリア語などの母音数が少ない言語よりも、英語のように母音数が多い言語に頻繁にみられるはずである。何故なら図1を見れば分かるように、母音数が増えると、母音間の重なりが増えるからである。音声コミュニケーションにおいて絶対量を使い難くなるからである。
(~「あ」という声を聞いて母音「あ」と同定する能力は音声言語に必要か~より。図1はリンク先でご覧下さい。強調は引用者)


いや~~~、この説明は、本当に本当に目からうろこでした。

いろんなディスレクシアの勉強会に潜入してきましたが、
ディスレクシアが日本語よりも英語ででやすい理由の説明は、たいてい
「granularity(粒度・音の単位の大きさ)」と
「transparency(透明性・音と文字の対応)」で説明されています。
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/10384738

わかるようなわからないような・・・
「音と文字の対応が低い言語ほど、ディスレクシアが出やすい」
というのはわかるのですが、それだけでは納得しがたいものがあります。

というのも、うちのやつが一番読むのに苦労しているのは、
漢字よりも、ひらがなやカタカナが長く続く時だからです。
でも、ひらがなやカタカナの透明性は高いですよね・・・もやもや。


それを!
母音の数が増えると、母音同士の重なりが増える。
そういう言語は、音どうしの関係性(だけ)で音声言語を把握しようとしている人=ディスレクシアにはつらいはず」
と論じたのは、実に鮮やかです!!


☆  ☆  ☆


で、途中は省略しますが、
今年度の音響音声学の授業を受けさせて頂いてます。


峯松先生は、超一流の研究者です!
(ご自身は「技術屋」と自称してますが。)
研究者にせよ技術者にせよ、
 「超一流は惜しみなく与える」ことを知りました。
厳しいですが思い切って言いましょう。
「出し惜しみする人は、一流とは言えない!!」


感動語録は着々と蓄積中。
ことばのデフォルトは文字ではなくて、音である
「脳まで行かなくても、音のからくりから、言葉について説明できることはたくさんある
などなど。

とはいえ、感動するだけなら幼稚園児でもできる(×_×;)と、釘を刺されています。

技術屋はインフラを作ることを目標にしないといけない。
どんな人でも、おばあちゃんでも、使えるようなものを」。
感動するだけでも、論文を書くだけでもだめで、万人が使えるところまで目指すもんだと言われました。かっこいい・・・

「言語学の研究者は、語ゲシュタルトという言葉ひとつとっても、きちんと定義していない。
定義してくれれば、技術屋はそれを形にするのに」

「自分は野に出ることはできないので、この技術を現場で生かしてほしい」


はい!私は教育産業で働く者として、またディスレクシア児の親として、
授業で学んだことをディスレクシア教育実践の形にできるよう、頑張ります!